法話

お護摩って⁉️

毎朝焚いております〈護摩の功徳〉についてふれてみたいと思います

当山では息災法の護摩を修法しています。息災法とは、字の如く「災いを息」(わざわいをやむ)と言って、個人の苦難や煩悩除去、それだけではなく疫病や自然災害などが発生した際に心のざわつきをストップさせることも含めての祈願となります。

「護摩」には浄化、清めの意味もあり、「土には浄化と再生する力。水には洗い清め、火は焼き清める、風は払い清める。」大いなるこの自然の浄化力に勝るものはありません。

護摩を焚く作法でも4大元素の「地·水·火·風」の力が備わっています。
地は護摩を焚く壇のこと。昔、インドで護摩を焚く時は、土で壇を築いておりました。水は真鍮製の仏器に入れ、風は扇によって発生させ、火は壇木を燃やしておこします。

護摩の功徳が増大なのは、「地·水·火·風」の自然の力を最大限に用いて、場を清めること。神仏の好む空間、それはきれいな清い場所。境内で一番「清い」場所は護摩壇の火の中になります。その護摩の火の中に木札を潜らせることで不動明王の御霊が宿り…手を合わせる対象へと変わります。
コロナという疫病によって、我々人間の心は、ざわざわしております。そんな心のざわざわによって、本質が見えなくなってしまわないように毎朝お護摩をもってご祈願しております。

How To  OH!みくじ

当山の御籤は、元三御籤ともいい、おみくじ発祥である天台宗の元三大師考案のおみくじです。元三御籤の吉凶の割合は3割が凶、その多さに驚かれることでしょう。なぜ凶が3割もあるのでしょうか。

この世界には自分の思いどおりにならない「四苦八苦」があるから、人は皆「迷い苦しむ」のではないでしょうか。人間の迷い苦しむ中に一筋の光を照らす役割を担うのが「おみくじ」であるともいえます。

おみくじをお正月のイベントで引く方を見かけますが、「凶」が出ると、ショックのあまり凶以外が出るまで何回も引く方、おみくじの中身を読まず、すぐ境内に結んでしまう方をお見かけします。年に一度のイベントで引くのも結構ですが、今の悩み、迷いといった「苦」をしっかりと見つめ、向き合い、おみくじを引くこと。そうすれば「苦」を乗り越える為の機縁を「おみくじ」から頂けます。

お寺の境内に結んで帰る本当の理由は、頂いた言葉を読み取るだけでなく、強い意志をもって実行していけるように、仏様にお約束する。そのために結んで帰るのです。これを「願をかける」とも言います。大切な事は凶であっても大吉であっても、中身をしっかりと読むこと。吉凶にとらわれず「お守り」として持つのもよいでしょう。

願い事

「願い事」の成就の有無は、願いに対して、継続して精進できるかどうかにかかっているのではないでしょうか?

望みを叶えるには、達成するまで精進し続ければ必ず成就に至ります。
その反対に途中で投げ出せば、叶うものも叶いません。
願いの成就を待たずして、なぜ途中で脱線してしまうのか。
それは、心の奥底に潜む迷いや悩み、煩悩が日々の精進の邪魔をしてくるから。
なぜ煩悩が芽ばえ、邪魔をするのか?それは身体があるからです。身体があるからこそ生まれる衣食住への基本的欲求。「きれいな服を着たい」「おいしい物を食べたい」「広い家に住みたい」ともっと、もっとと満足することなく、人間の欲という煩悩にはきりがありません。

一つの道を粛々と迷わず進んでいけば、心願も成就しますが、如何せんそれが
難しい。しかし「願い事は成就させたい」。
願い(思い)が横道へそれないように成就への導き手としてお不動様が登場され、
心願成就の為に不動明王の炎(火生三昧)が必要とされるのです。
一本の「成就への道」から煩悩という「魔」が差し脱線しようとする。脱線しない
ように「成就への道」の両端を炎で「脱線の芽」を焼き尽くしてくださいます。
これこそが、不動明王の「火生三昧」の境地です。

絵馬に願い事を書いて奉納される時は、その書いた思いが成就するように一所
懸命に精進努力をしてください。お不動様がお力添えをしてくださいます。
叶うまで、続けてみることです。

お寺って

お寺の維持管理をする者として、なぜ維持管理をする必要があるのか?お寺の存在ってなんなのか?

お寺は、在家の方々が、「道」に迷われた時のために存在しているのです。

道に迷うとは、「正しい判断」ができない、わからない時におこるのでしょう。

その正しい判断ができるために、お寺があります。

判断をするのは、他の人でもなく「己自身」です。

そして私たちは、いつも「判断」に迫られています。

日々の生活の中で、細かく言えば常に何かを判断(選び)しています。

小さいことから大きいことまで、「今日の夕食は何にしよう」「学校で何を話そう」「傘持っていこう」などなど。すべては選択の連続です。判断の連続です。

 

私たちが判断する時には、「正しい判断」か「よこしまな判断」か。

また「先延ばしにするか」この三択の中で日々生活をしております。

「先延ばし」の場合でも、「先に延ばそう」と判断しているのです。

その「自分自身」で決断をしないといけないのですが、「こころ」がフラフラしていては、判断しかねます。その「こころ」を落ち着けるために、穏やかにするために「こころ」の波を静めるために「仏の教え」があります。

その「仏の教え」を絶やさず繋いでいる場所が、お寺になります。だから、お寺は必要であり、2500年たった今でも現存しているのでしょう。

 

動機はどうあれ、まずは「お寺に足を運んでいただけける」ことが、何より大切なこと。お寺はコンビニよりも多いというのは、皆さんも周知の事実でしょう。しかし、コンビニほど、入りやすくもない。そうです。敷居が高い。

それでは、布教もできません。布教できなければ、仏教を広めることもできません。

ツバメでもなんでも、まずはお寺の敷居をまたいでいただくこと。これが大事。

お寺は、住職のためにあるのでもなく、またその家族のためにあるわけでもなく、ただただ、「道を迷えし者」のために存在しているはずです。

今は、心が安定していたとしても、この「諸行無常」の世界において「絶対」は存在しません。いつ何時、悩み苦しむことになるかは、わかりません。今は、穏やかで順風満帆だったとしても次の瞬間には、崖から転げ落ちていることもある世界。

であれば、調子が良い時にこそ、つながりを結んでおくおことをお勧めいたします。そのつながる方法が、「ツバメ」だって良い。「盆踊り」だって良い。「キャンドルナイト」だって良いのです。なんでも、どんな形でもお寺と繋がっておくことが大事なのです。

そう、もしもの時のために。

「考える」

今私ができること、それはこの世界で【如何に生きるか】ということに真剣に向き合いそして【今をより良く生きる】ということを念頭に置き日々自問自答しながら前進していくことに尽きます。

【今をより良く生きる】ための最善の方法を、仏教は教えてくれています。それは、六波羅蜜(ろくはらみつ)という仏教の修行方法の中の一つである、布施(他へ分け与える)という行為です。これを「布施行」と言います。

私には、とても尊敬し、いつもその背中を追いかけていた先輩僧侶がおられました。その方は、平成30年に四一歳という若さでこの世を旅立たれましたが、いつも檀信徒の皆様に『お布施は修行』といって説法をされておられました。

命と同様に大切なもの、それは、「時間とお金」であります。その自分の大切な時間とお金を手放し、他へ分け与えることが修行であり布施行になります。

二宮尊徳公の教えに『たらいの水』の話があります。

水を自分のほうに引き寄せようとすると向こうへ逃げてしまうけれども

相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。

だから、人に譲らなければいけない

 

まさに布施の精神と同じではないでしょうか。自分にとって大切な時間とお金を引き寄せるのではなく、向こうに押しやる、手放すことで巡り巡って得られるということです。私が尊敬してやまない、今は亡き先輩僧侶の教えと二宮尊徳公の教えと同じであります。

足りない、足りない、もっともっと、とかき集めようとすればするほど、幸せが逃げていくということです。

頭では理解していてもなかなか出来ません。私たちが生きているこの世界は、修行の世界でございます。お寺は、修行の道場であります。その道場を維持する役目のためだけに私は存在しております。どうぞ一緒に修行をいたしましょう。

「新年の節目にこそご祈祷を」

昨今は、記録的な豪雨、強烈な台風、そして強い揺れに次々と天災に襲われて多くの犠牲者、甚大な被害が出ております。天災を目のあたりにするといつも思います。この国が、いや私達が住んでいるこの世界は、天災から逃れることができないのだと。

一切皆苦〜人生は思い通りにならない〜

お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いておられます。仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味があります。「思い通りにならない」ことを前提とし、歩みを進めていくことが、人生を歩むコツのように思います。

このように、「生きるコツ・生きる力」を与えてくれる人間学の一つとして、仏教(宗教)は存在します。その仏の教えに触れていただく機会の一つとして「お正月」があります。

お正月は、一年の始まりと同時に大事な節目にあたります。

「竹にフシがなければ、ズンベラボーで、とりとめがなくて、風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。竹にはやはりフシがいるのである。同様に、流れる歳月にもやはりフシがいる。ともすれば、とりとめもなく過ぎていきがちな日々である。せめて年に一回はフシをつくって、身辺を整理し、長い人生に耐える力を養いたい。そういう意味では、お正月は意義深くて、おめでたくて、心もあらたまる。常日ごろ考えられないことも考えたい。無沙汰のお詫びもしてみたい。そして、新たな勇気と希望も生み出したい。すがすがしくて、さわやかで、お正月はいいものである」(現パナソニック創業者・松下幸之助氏の言葉より)

新年のお参りが、常日ごろ考えられないことを考えていただく、きっかけとして頂けたら幸いです。お正月に非日常の空間へ身を置くことで、人間学でもある仏教を肌で感じる大変良い機会となるのではないでしょうか。また、「一年の計は元旦にあり」とも言われ、一年の目標を立てるのにも良いでしょう。

「観音様の手が・・・」

当寺では、平成29年10月に発生した台風二十一号により松の木が倒れ身代わり観音様の像に当たり破損。瓦や提灯等も飛ばされ大きな被害を受けました。

「形あるものは必ず壊れる」であります。

仏教の開祖であるお釈迦様は“諸行は無常である”とお悟りになられました。世の中のすべての事は、常に移り変わってゆく。一つのところにじっと留まって、変わらないというものは何一つない、とお悟りになられました。

全てのものが留まることなく、刻一刻と移り変わってゆくという事は、全てのものは生きているという事であります。だからこそ、私どものいのちも、人生も、その変わってゆくひとコマひとコマの生命のリズムにのって、その内容をよりよく変え、「生かす」ことができる訳です。こうした心のヒラメキ(気づき)を与えてくださるのが、仏の教えであります。

「いのち」のありがたさに気づき、“いのちを生かす”ことさえ忘れずに、日々の暮らしを推し進めることができれば、こんな素晴らしい人生はないでしょう。しかもこの「いのち」は、自分一人だけの「いのち」ではなく、全ての人々の「いのち」と共にあります。人間はけっして一人では生きてはゆけない。いうなれば、この大宇宙の大いなる「いのち」の一連の中の一つの「いのち」であります。

この「いのち」を生かさせていただく為にどれだけ多くの「いのち」を、その糧としていただいていることか。この多くの「いのち」を生かすも殺すも自分自身であります。

より良く「生かす」ためには、自分自身が本気で精進努力を積み重ねるしか他にありません。“諸行は無常”であり、全てのものは留まることなく、移り変わってゆくからこそ、より良く移り変わらせる事ができるのです。

「天災(地震)から」

「地震」が起こる度に私たちは、非常に繊細な土台の上で生活をしていることを実感させられます。毎日三食の御飯を食べる、それも自分が好きな物を腹一杯食べることができる。今の大半の日本人には当たり前のことです。住む家もあってエアコンもあります。着る服にも不自由しません。これも当たり前のことになっています。

しかし、地震がおこると、現在のすべての生活がまったく維持できません。とても不安定でもろいものであり、いつなんどき、そのような状態になるかもしれないのです。
そこで大切なのは、「当たり前のことをありがたく思おう」ということです。毎回御飯を食べる時に「ありがたい」、エアコンを使う時にも「ありがたい」、車に乗ってどこかに行く時も「ありがたい」…、と何をするにもありがたいと思ってみましょう。

またさらに重要なのは無いことになるべく不満を持たないということです。人間の体で考えてみましょう。赤ん坊で生まれてグングン成長していきますが、青年期を過ぎると、人間は失うばかりです。体力は落ちるし、髪の毛は抜ける。目は悪くなります。耳は遠くなります。歯は抜けていきます。年を取るのは仕方のないことです。しかし、なくなっていくものを嘆くよりも、今まだ残っているものをありがたく思うべきではないでしょうか。

「当たり前が、ありがたい」こんな風に思える事が出来れば素晴らしい一日、一月、一年となっていくのではないでしょうか。

「不動心」

「情報」という視点に眼を向けますと、様々なメディアを通して入ってくる沢山の情報の中で、受け取る側も日々錯綜し、振舞わされているように思われます。

例えて言えば、私たち一人一人の心が、周りの風に煽られて「風見鶏」のように、くるくると踊らされ、目線が迷っているような状況に似ています。

「白隠禅師坐禅和讃」の一節に「遠く求むるはかなさよ」とあります。遠く求めてしまうのは、風見鶏のように、周りの風に煽られて思いもよらず翻弄されている私たちです。

私たちは、遠くの山の木々を見て、風の方向や強さを知ろうとしています。それらを知れば、風に対処できるのではないか、今あるものを失わずに済むのではないか、そうなれば、この心の不安も収まるのではないかとはかない思い違いをしているというのです。もちろん、自分の周りを知る事は大事なことです。
しかし、自分自身があやふやで、右往左往していては、風見鶏の軸がぶれているようなもので視点が定まりません。大事なのは自分の中心軸です。私たち自身にも、そういう動かない一点(不動心)があると信じて、自分自身を見つめてみましょう。
外の風にいくらくるくると回されても、自分自身の動かない一点があると信じて、自分を見つめていきたいものです。

「ツバメに学ぶ」

専門家の先生から全力で生きるツバメの生態を学び、大日経にある

「法位に住する」という言葉を思いだしました。

法位の「法」は、存在と言う意味、

法位の「位」は、役目と言う意味があります。

「存在する役目に住しなさい」

自分自身の役目に一所懸命向き合いなさい、と言う意味です。

ツバメなど、生きとし生けるものはみな、自分の役目に住して命を全うしています。

私たち人間もその姿を見てしっかりと「生きたい」そう思います。

「大切な出来事」水子供養

時世がどんなに移り変わっても、子が親を慕い願う思慕は変わりません。

それとともに親が子を思う気持ちも変わりません。

草木が芽を出すように、この世に生をうけようとして力の限り精一杯生きようとした子も

それを大切に育てた母もこの「諸行無常」の理の中で、「いのち」の儚さに向き合わなければ

なりません。

四苦八苦から逃れることができないこの世の摂理に触れ「道」がわからなくなることも

あるでしょう。後悔や懺悔を口に出す方が多いように思います。しかし、水子さんがそれを

求めていることはありません。「悲しい出来事」ではなく「大切な出来事」と受け止め、

一歩一歩前に進んでいきましょう。

お寺は、「心を痛めていらっしゃる方」に「安心・安らぎ・生きる希望」の萌(きざし)を

得ていただく為に法話や読経を施します。それを法施といいます。

もし、歩むべき「道」がわからなくなった時には、ご相談くださいませ。

「急がば回れ」

仏の教えと書いて仏教。
さて、その仏教とは…
ひらたく言えば悟りという智慧を得ること。その智慧とは日々穏やかに障りなく生きる為の方法。

人類史上、かつてない程に物質的に恵まれた今でも、人の感心は昔と変わらず自然と「心」という内側に向いているのでないでしょうか?
自分の心を知ることは、長きに渡っての永遠の「テーマ」なのだと思います。

そして自分の心を覗いて見たとき、どうでしょう。
欲や執着でいっぱいになっていませんか?

「急がば回れ」
自分の欲を追うのではく、他への思いやりをもって円満に過ごそうと考えてはいかがでしょうか。その智慧が仏の教えの中にあるのです。

例えば【四摂法】(ししょうほう)という誰でも出来る菩薩の行為があります。

布施 独り占めせず、分かち合うこと
愛語 優しい…慈悲に満ち、愛情のこもったことばをかけること
利行 見返りを求めずに人の為になることをすること
同事 相手の立場にたって物事を行うこと

人の心の位置は耐えず一定ではありません。
心に余裕があるときは、他人にも優しくできるもんです。
しかし、どうでしょう。我が利益、我が利益と
「我利我利亡者」(がりがりもうじゃ)になっていませんか?
しかし、そんな時ほど、この心持ち(四摂法)で生きる努力をする。
ちょっとした修行になりますね。

しかし…困難にある時に、誰かにこのように接しられるとその人が仏にみえる。
なるほど, 【菩薩行】という…わけです。

仏教は遠い所にあるのではなく、私達の生活に寄り添って2500年絶えることなく存在しています。仏の教えを身近に感じて、皆様の日々に活用してくださいませ。

「種の中は宇宙でいっぱい」

【大賀ハス】ご存知でしょうか?
ハスの権威者である大賀博士が遺跡で発掘された2000年以上前の古代ハスの実の発芽に成功されたので『大賀ハス』と呼ばれております。
当山でも育てており、今年も綺麗なハスの花を咲かせて見せてくれました。
2000年前に咲いていた蓮が、目の前で咲いているのを見ているだけで心が豊かになっていきます。
仏教で縁起のことを「因縁所生」(いんねんしょしょう)とも言います。
この世界は、すべて因縁で成りたっています。
因は、直接の原因。
縁は、間接の副因。
ハスの花は、ハスの種が因であり、
種を発芽し成長させる「大賀博士のご尽力、太陽の光、水、土、空気」などは縁になります。
2000年も前の種から綺麗な花を咲かせるに至るまでには、
さまざま条件に、よっていることがわかります。
ハスの種といえども、そこには無限の因縁が複雑にからみあっていて、
このハスの花には「すべてのものが関係している」ことが分かります。
この関係しているという点で、ハスの種は実は「宇宙の縮図」であり、その中に宇宙のすべてが含まれるとも言えます。
「ただのハスの種」だと思ってみると、そうでしかないのですが、その奥に隠された見えないものをちゃんと見れば、そのすばらしさを感じることができるのだと思います。
「見えないものを見ようとする目をもてるかどうか」
これがもてれば、ハスの種の中に「宇宙」を見ることができる。
私たちの実際の生活は、すべて『他力』(まわりのおかげ)からなっています。
「見えないものを見ようとした」とき、
わたしが「生かされている」のは、すべての他人や大いなる自然の恵みのおかげであり、
「ありがたい」という気持ちが芽生えてきます。
1人では何も出来ない。出来ているのは周りのおかげ。
周りからたくさんの栄養をいただくことができれば、きっと綺麗な花を咲かせることにつながるのでしょう。

「大地の響き」

大地を真言宗では、大日如来ととらえます。

大地の【息吹・振動・波動】を観じ、大地の上に立つ我々生きとし生けるものすべてが、各々の振動は発信していくことができたなら、こんな素晴らしいことはないでしょう。

私たち人間以外の生きとし生けるものは皆、命の限り精一杯そのものを「生かしきる」ことに邁進しています。お寺で子育てのために毎年帰ってくる「ツバメ」も1時間に約40回も給餌をしています。それでも、天敵であるカラスやムカデ、イタチなどに捕食されることも少なくありません。その天敵であるカラスたちもまた、自分のDNAを繋ぐために命を生かしきっています。

例えば、小さな子供が夢中で目の前のことに取り組んでいる姿を見ると、心が動きます。

感動して心が震えることがあるでしょう。

「たのしい・うれしい・おもしろい」と言う気持ちで自分自身の魂を奮わせることができれば、その振動、波動は間違いなく隣にいる人の魂までも奮わせることでしょう。

大地の波動と共鳴し自分の心を震わせることにより、周りにいる人たちの心も震わせ共鳴させることができるのです。感動を与えることができるのです。

「生かしきる」とは

魂をふるわせ振動させて、自分の存在する役目に「住しきる」ことではないでしょうか。

「言霊」

人は皆、光明真言のように光明を放つことができる。

魂のこもった前向きな言葉は、太陽のよう。護摩の火のように暖かい。

周りにいる人たちの心を暖かく照らしてくれる。

その言葉に引き寄せられ、周りにいた人たちは自然に集まってくる。

これが言霊の力。

言葉には、力があるのを改めて実感した。

「前向きな一言」が、場の雰囲気を一気に変え、みんなの心が一つになる。

これが言霊なんだと思う。

前向きな、そして心が揺れる言葉を発信していきたい。

だからと言って、後ろ向きな言葉ばダメなわけではない。

『否定的、後ろ向きな言葉』ももちろん大事。今一度自分の心と向き合うきっかけとなる。

例えば、会議でたくさんのメンバーと話をしている時も同じ。団体として目指しているところは、同じでも歩幅も違えばスピードも違う。そんな中、誰か一人が、「後ろ向きな言葉」を勇気を持って発信することにより、そこにいるメンバー全員が立ち止まり再興する。次に動き出すときには、前よりももっと確かな「一つの塊」となって進み出す。

「否定的・後ろ向きな言葉」が悪いわけでもなく、それを「どう生かすか」ということが大事。

「生かし、生かしきる」この精神が仏道であり、仏の教えなのだろう。

「きゅうり封じ」

「きゅうり封じ」は、真言宗開祖である弘法大師空海上人伝承のご祈祷です。

四国や淡路島の地域では、盛んに行われていると聞きます。

豊中市には、そもそも真言宗寺院が多くありません。この地域にお暮らしの方々には、耳慣れない言葉かと思います。

この秘法は古来より民間大衆の中で病人のお加持として、霊験現たかにして津々浦々で行われてきました。病魔(疫病)の源である因縁をキュウリに封じ、病気全快を願う法で年に一度「夏の土用の丑の日」に祈祷するのがならいであります。皆様方の熱心なお祈りとお大師様の功徳力を以って、健康な日々をお過ごしいただけるものと信じております。

お堂の前には、巨大きゅうりを設置(期間限定)し、皆様のお参りをお待ちしております。

きゅうりを使用するのは、フォルムが人間の形に似ていること。人間と同じように、水分を多く含んでいることから、数ある夏野菜の中からきゅうりが選ばれたのでしょう。

また、胡瓜の断面が仏教のシンボルである「法輪」の形に似ていることも理由の一つに挙げられます。なので、当山の巨大きゅうり、名付けて『きゅうりん』は、回るようになっています。

「きゅうりん」を法輪とみなし、自分のため、人のために回しながら、祈願してください。