境内案内


万葉の歌碑

<万葉句碑>
千里を詠んだ歌の中でも最も古いとされる一首は、万葉集巻十二に出てきます。

『玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道(やまじ)超ゆらむ』

この歌は作者不詳であるが、歌謡的な抒情味に富んだ作である。奈良朝以前が大和河内浪速あたりにあった頃、その地方から丹波方面へ旅立った夫の行路をしのんで留守居の妻が詠んだものであろう島熊山の所在については、契沖阿闍梨がはじめて万葉代匠記の中に順徳上皇の八雲御抄を引いて考定された。

土地開発にともない山容地形が著しく変わって行くのでここに歌碑を立てることになった。

豊中市から【豊中不動尊と万葉歌碑】で『とよなか百景』の一つに選ばれております。



夜泣石

知る人ぞ知る、豊中不動尊に伝わる不思議な石『夜泣石』

【この石にまつわる伝説】

話は戦国の頃、一世の風雲児、織田信長が都に上って将軍足利義昭を追い、天下制覇の一歩を踏み出した時、足利の宿将、新開摂津守村重も織田方に帰順しました。その席上、刀を抜いた信長は饅頭を突き刺し「これを食え」と差し出すと、荒木は「有難き次第に候」と一礼して這い進み、悠々とその饅頭を食しました。

信長に重用された荒木は摂津60万石の大名となり、伊丹城に在って勢威を誇っていました。

天下制覇絵を狙う信長は、荒木の豪勇を秘かに警戒しており、謀叛の胆ありと判断、突然大軍を持って伊丹城を包囲しました。荒木は座して死するよりも血路を開かんと、夜陰に乗じ、城門を開いて中央突破、暁方、島熊山付近で織田方の一部隊と遭遇戦を演じました。

まさに屍山血河(しざんけつが)、死闘を演じる中で一際目立つ若武者一人、織田の軍兵を孤剣をもってささえる間に、荒木村重は危地を脱出、主君の無事を見届けた若武者は、すでに傷ついた身を横の石に腰掛けて泰然と自決しましたが、その石を後世『夜泣石』と呼ぶ次第。

その後、慶長時代に安倍摂津守という殿様が松茸狩りの時、この石を見て庭石に好適と持ち帰らせたところ、石は夜な夜なすすり泣く為に山に帰したと言われています。

巡り巡って不動尊に祀られるようになってからは、すすり泣く声もなくなり、今では『夜泣きが止む』石・また『歯固め』の石として、お守りがわりに持って帰られます。