良くも悪くも、すぐに馴染んでしまう性質

お寺、僧侶が一番忙しい時期は、師走から節分にかけての3ヶ月間です。

これといって、まとまったお休みがあるわけでもなく、病気になってはいけないという危機感を感じながら過ごしておりましたが、星まつりを終え、一区切りしたところで、気持ちが切れたかして、インフルに罹ってしまい5日間寝込みました。

心身一体とは、よく言ったもので、張り詰めていた糸が切れた瞬間、熱を出し寝込むという、非常にわかりやすい心と身体のつながりを実感いたしました。

身体とは、正直なもので寝込んで5日後にいつも通り御祈祷でお経を唱えますと、全く思うように声が出せなくなっているのです。

自分の意識していないレベルで響くお経を唱えるための姿勢が、自然と身についていたのでしょう。それが5日間休むことによって忘れてしまっているのです。

身体とは、良くも悪くもすぐに順応していきます。

私は、寝すぎると頭が痛くなって後悔する時があります。インフルで寝すぎた次の日も案の定、頭が痛くなりましたが、インフル中ということで、そのまま寝続けていたら、頭痛もなくなってしまうのです。これも、人間の身体の順応力です。身体が順応して慣れる速さに驚かされます。

今回寝込み、ふとんの中で考え、気付いたことを綴りたいと思います。

私たち、僧侶は、修行中から今に至るまで、お経を唱え続けております。例えば、毎日のようにお唱えする十善戒ですが、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見。これは、真言宗のお経の基本というぐらい必ず読まれるお経です。

最初は、「こんなん守れない」と思っているのですが、唱えることが使命だから出来なくても守れなくても唱え続けるのです。

そうすると、一つもできていない自分が情けなくなってきます。そうこうしていると、なんとか、10あるうちの一つぐらいは守って「僧侶らしく生きたい」と思ってくるのです。その発心する気持ちこそが、大切なのです。その気持ちを芽生えさせるために、毎日毎日、聖経を唱え続ける必要があるのだと思います。

違和感を抱き情けなくなるぐらい継続してこそ、高い境地へと階段をのぼれるのではないでしょうか。意味が分からなくても、毎日継続し聖経を唱え続けてみてください。

「お寺は、モヤモヤした気持ちを唯一吐き出すことができる場所である」と以前書かせていただきました。

仏教の開祖であるお釈迦様の遺言に「自灯明・法灯明」=「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」とのお言葉があります。

目の前の仏像である仏様を介して自分の中にある仏性に吐露し、法を頼りに歩いていきなさいということです。

実は、お寺の仏様の前で吐露しているのだけれど、実は、目の前の仏さまを介して自分の中にある仏性に吐露していたという事なのです。

だからこそ、法である聖経を唱え続け、違和感を抱かし、一つずつ身に着けて二つ、三つと増やしていくことによって、拠りどころである「法」を自分の中に構築し、それが「柱」となって自分を照らす蠟燭の芯となるのでしょう。

人間は、良くも悪くも順応する能力を秘めています。その能力を良いほうに作用させるためには、「日々是継続」が一番なのだと、病気になって改めて考えさせられました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする