島熊明神社【城白山大神・千里山魔法大僧正・櫻大神】
【島熊明神】社に祀られる【城白山大神・千里山魔法大僧正・櫻大神】のご紹介をさせていただきます。
【城白山大神】は、別奉称を『白龍大明神』と申します。古来より蛇は、水神として崇められてきました。蛇と龍は同一視されることにより「白龍大明神」と称します。
【千里山魔法大僧正】は、この地で修行をされ法力を得た修験者を神格化しお祀しております。
城白山大神と千里山魔法大僧正の2座は、豊中不動尊から数百メートル北に位置する湧水の鎮守として祀られておりました。「千里山魔法大僧正」の石碑の裏には、【大正十五年 溝渕豊吉・政子】と刻まれております。桜の町に住まわれていたこのご夫婦が、その昔、湧水の鎮守として『城白山大神・千里山魔法大僧正』をお祀りし、ここを行場にして、悩みある人の相談にのっていたと伝えられています。
また、一緒に祀られております『櫻大神』は、別の場所(櫻井谷)にお祀りされていたと聞いております。
その後、土地開発は進み、豊中不動尊境内に島熊明神社を移築しお祀りする運びとなりました。
前方の狐は当社の付属の霊獣にあたり水神である白龍の威力増大による水害を防ぐには、陰陽五行による「土剋水」で土の気を有する狐の登場が要請され祀られております。(諸説有り)
城白山は知る人ぞ知る、「智恵の神・学問の神」さまです。受験や人生に迷いがある時は、どうぞ御加護をいただきにお参りください。
【清少納言も愛した千里丘陵】
この辺り一帯、島熊山・待兼山・玉坂山・刀根山などがある千里丘陵は、昔「寝山」と呼ばれておりました。
これは、京都の山々の傾斜が「ふとん着て 寝たるすがたや 東山」と詠まれたようになだらかな丘陵の様子から、ここ島熊山一帯もそう呼ばれるようになったのでしょう。
万葉集にも詠まれた風光明媚な島熊山は、箕面や生駒のような山とはまた違う雰囲気の修行の山でもありました。
【チョンベが滝のお獅子岩】
ここ豊中不動尊から南へ数十メートル下った所には、『チョンベが滝』という小さな滝があり、そこに祀られていた「お獅子岩」こと「八大龍王」の石碑は、不動尊境内の「水かけ不動」に鎮座されております。
【島熊山の一本松】
お社の右奥には、『島熊山の一本松』の枯木を納めております。昭和四〇年代までは緑丘三丁目あたりは、そのふもとまで造成されただけで残されていました。この峰に一本の唐傘様の松があって、「島熊山の一本松」として地域の方々に親しまれておりました。
【身代わり観音】
赤門の隣で手をあげておられる仏様をご存知ですか?
小さな子供達からは「ウルトラマン」だぁと声をかけられるこのお寺で一番大きな仏様。
その名は「身代わり観音」
今にも「シュワッ」と空に飛んでいきそうに右手を上げて、掌を下にし、見あげる程大きく…
どっしりとした観音様。
この右手を「施無畏印」(せむいいん)といいます。
施無畏(せむい)とは「畏れる必要は無いですよ。大丈夫。 まかせなさい」というお姿。
「あなたの畏れを身代りになってでも取り除いてあげますから、安心して自分の役目に邁進しなさい」という誓願をお持ちです。
ほとけ様にとって私たちは幼子。
よしよしと頭を撫ぜてもらい温かく包み込んで下さるお姿に身を委ね 全力で生きれば
心も少し軽くなり「楽しい、面白い、嬉しい」という気持ちになるのではないでしょうか。
【万葉の歌碑】
<万葉句碑>
千里を詠んだ歌の中でも最も古いとされる一首は、万葉集巻十二に出てきます。
『玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道(やまじ)超ゆらむ』
この歌は作者不詳であるが、歌謡的な抒情味に富んだ作である。奈良朝以前が大和河内浪速あたりにあった頃、その地方から丹波方面へ旅立った夫の行路をしのんで留守居の妻が詠んだものであろう島熊山の所在については、契沖阿闍梨がはじめて万葉代匠記の中に順徳上皇の八雲御抄を引いて考定された。
土地開発にともない山容地形が著しく変わって行くのでここに歌碑を立てることになった。
豊中市から【豊中不動尊と万葉歌碑】で『とよなか百景』の一つに選ばれております。
【夜泣石】
知る人ぞ知る、豊中不動尊に伝わる不思議な石『夜泣石』
〈この石にまつわる伝説〉
話は戦国の頃、一世の風雲児、織田信長が都に上って将軍足利義昭を追い、天下制覇の一歩を踏み出した時、足利の宿将、新開摂津守村重も織田方に帰順しました。その席上、刀を抜いた信長は饅頭を突き刺し「これを食え」と差し出すと、荒木は「有難き次第に候」と一礼して這い進み、悠々とその饅頭を食しました。
信長に重用された荒木は摂津60万石の大名となり、伊丹城に在って勢威を誇っていました。
天下制覇絵を狙う信長は、荒木の豪勇を秘かに警戒しており、謀叛の胆ありと判断、突然大軍を持って伊丹城を包囲しました。荒木は座して死するよりも血路を開かんと、夜陰に乗じ、城門を開いて中央突破、暁方、島熊山付近で織田方の一部隊と遭遇戦を演じました。
まさに屍山血河(しざんけつが)、死闘を演じる中で一際目立つ若武者一人、織田の軍兵を孤剣をもってささえる間に、荒木村重は危地を脱出、主君の無事を見届けた若武者は、すでに傷ついた身を横の石に腰掛けて泰然と自決しましたが、その石を後世『夜泣石』と呼ぶ次第。
その後、慶長時代に安倍摂津守という殿様が松茸狩りの時、この石を見て庭石に好適と持ち帰らせたところ、石は夜な夜なすすり泣く為に山に帰したと言われています。
巡り巡って不動尊に祀られるようになってからは、すすり泣く声もなくなり、今では『夜泣きが止む』石・また『歯固め』の石として、お守りがわりに持って帰られます。