「仏法遙かに非ず、心中にして即ち近し」

お大師さまは、次のように仰っています。
「如来は実に平等にして、悲心普からずということなし」と、
「仏様の慈悲は、全ての人や物に平等に与えられています」という意味です。
仏様の「慈悲」は、常に私たち衆生にふりそそがれております。しかし、私たちは、なかなか気付けないでいますね。
誤解を恐れず例えていうならば、電波のようなもので、電波を目で捉えることはできませんが、その電波は、確実に空から地上に向かって発信されています。それを受信機で受け取ることができれば、携帯がつながりますし、テレビも見ることができます。

となると、電波に例えた仏様の慈悲も常に上から降り注がれているわけですので、地上にいる私たちは、仏性という名の受信機をもって、受信しやすい場所を探す必要があるわけです。
普段私たちは、一種の山中にいるようなもので、周りを木々に囲まれている状態ではないかと思います。仏性という仏の種を有しているにもかかわらず気付けなくしている。それは欲や執着に心奪われ、仏性にモヤがかかっている状態、言わば、山中にいるのと同じ状態をあらわします。
では、その慈悲を受け取るためにはどのようにすれば良いのでしょうか?
懐中電灯を片手に一歩一歩足を前に踏み出していくしかないのです。
時には、道を間違えないように頂上を確認しながら、自分の足元をまた照らして一歩一歩、歩みを進めていく。そうするとやがて、視界が広がりついには、電波を受信できる頂上に至るのです。
それは、大変地味なことかもしれません。いつ、視野が開ける頂上にたどり着くかもわからないけれども、信じて歩み続ける、言わば継続ですね。継続の先に慈悲を受け取ることができる境地に到達しているということなのでしょう。
気をつけないといけないのは、ただ闇雲に信じて進むと、道を間違えてかえって時間がかかる時もあります。なので、実際に継続、続いている教え、二千五百年続いている仏の教えを信じ、歩むことをお勧めいたします。
それでも、登頂に至るまでの道には、険しい時ももちろんあります。
人生には山あり谷ありとよく言います。

「いいこともあれば悪いこともある」と理解しがちですが、決してそれだけの意味ではなく、自分が今いる場所からだけで人生の幸せ、不幸せを判断することはできません。なぜなら、視界が広がる頂上に出たとき、初めて過去の経験がどれも大切であったことに気付かされるからです。どんなにしんどいことも、どれだけ苦しいことも、すべては、仏性を磨く磨き砂だからです。その場、その瞬間の結果に振り回されることはありません。どうか、長く続いている仏の教えを信じて継続をしてみてください。

慈悲を信じ、仏の教えを信じ、山も谷もある道をもがき苦しみながら歩みを進める中で、ふと見上げると、いつの間にか目の前の視野は開け、仏の慈悲を受け取ることができると同時に、それは、外からの慈悲ではなく、自分が歩いてきた軌跡の結果、掴み取った(感受)己の中にある仏性(仏心)による「気づき」であることを知るのです。
「仏法遙かに非ず、心中にして即ち近し」
仏は決して遠くにおられるのではなく、心の中におられるということを学ばせていただいているのかもしれません。

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