見えないものを見ていくことの大切さ

見えないものを見ようとする時、1番近くにあって1番見えないもの、
それが「自分の心」ではないでしょうか。
他人のことは、良くわかっても自分のこととなると、まったくわからなくなってしまう。私もその1人です。そんな私が「自分の心」について考えざるを得なくなった機縁が阪神淡路大震災です。祖父を亡くし、私自身も生き埋めになったあの日から27年の月日が経ちました。「生と死」に触れ、否が応でも向き合わなくてはならなくなった瞬間でした。そして自分なりに向き合い、導き出した答えを今。豊中不動尊の住職として語り続けております。この活動をこの度、朝日新聞の朝刊に掲載していただくこととなりました。

仏教とは、人間学であります。我々がこの世界(社会)で「何のために存在し、何のために生きているのか」ということを正く理解し、そして「人生をいかに生きていくか」という自分の役目を見出しその役目に向かって進んでいくことを説いています。
地震で被災し「生と死」に向き合い27年経った今の私は、次のように考えております。

いつ消えてもおかしくないこの不安定な地面の上に、命の炎を灯して生きていることがすでに奇跡であります。非常に不安定でありながらも、今の私の命の炎は輝き、周りに温もりを与えながら灯っている。
奇跡はすでに現在進行形でおこっているのです。
ひとたび地面が揺れれば一瞬で何千、何万の命の炎が消えてしまうこの現世において、生きているということはすでに奇跡の塊でとてもありがたいこと。
だからこそ、生きている私たちは、未来でも過去でもなく今を生きていかなければならないのです。

けれども、人間の心はとても弱い。分かってはいるけれどもすぐ忘れてしまう。忘れて気がつけば、生きていることが「当たり前」になってしまう。生きていることが当たり前になれば、周りに対する不平や不満で心が覆われる。このような状態で、物事を正く判断できるはずがないのです。そもそもこの世に「当たり前」なんてものがないのですから。

いま私たちは、当たり前のように雨風をしのげる家に住み、当たり前のように自分が選んだ服を見に纏い、当たり前のように自分の好きなものを食べて生活をしています。
しかし、地震を経験すると今まで当たり前だと思ってきたことが、当たり前ではなかったのだと気付かされるのです。家は壊れ、自分の服も取り出すことはできず、食事も思うようには摂れません。これが現実なのです。何も考えず、何も疑問を抱かず当たり前と思って「衣食住」を享受し生活していたのが、ひとたび地面が揺れるとすべて崩れ去ってしまうのです。

本当は、何かが変わるのではなく、そもそも我々が生かされているこの世界に「当たり前」が存在しないのです。この世界は「当たり前」の反対の世界、つまり「ありがとう」の世界なのです。
「有ることが難しい」と書いて有難い、そして「ありがとう」になるのです。
この世界は、「有難い」世界だからこそ、今生きていることが有難いのです。
これがこの世の真理なのです。この真理こそが、仏であり教えなのです。

仏の教えは、決して難しくはなく、至ってシンプルではありますが、私たちの心の弱さが、その教えを複雑にし、見えなくしてしまっているのではないでしょうか。
豊中不動尊の秘仏も平生はご尊体の中にお祀りされて目には見えませんが、そこにおられるのです。秘仏のご開帳を機縁に、皆様の心の中にある秘仏(仏性)の扉を開ける努力をしてみてはいかがでしょうか。
きっと素敵な出会いがあると思います。

合掌

豊中不動尊 第四世 真光

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