地獄と極楽の違い

新年明けましておめでとうございます。

初詣などでお寺まで足をお運びいただいておりますのも、「手と足を止める」ところに意味があるからだと思っております。

お釈迦さまも菩提樹下で手と足を止めて瞑想をされました。
その結果、悟りを開かれたのです。
ということは、私たち人間は、手と足を止めると思考力が活性化されるということになります。

四苦八苦という土台の上に私たちはこの世界で生かされています。
そもそも思い通りにならない世界なのです。
そんな世界で朗らかに生きていくためには、考えるしかありません。

真剣に考え答えを見出すことで前に進んでいくほかありません。

この世界は、みなさんの「心の現在地」によって良くも悪くも見え方が変化していきます。

心の現在地が今どこにあるのか?
地獄に近いのか?はたまた極楽に近いのか?
一年の初めにご自身の心の現在地を見てみてください。

仏教の「極楽箸」というお話を紹介させていただきます。
地獄も極楽も昼食は大きな鍋で煮込んだ熱々のうどんだそうです。
それをそれは長いお箸を使っていただかれます。
大きな熱々のお鍋なので、長いお箸を使わざるを得ないのです。
しかし、お箸が長すぎて自分で自分の口にうどんを運ぶことはできません。

したがって、地獄世界ではみなうどんを上手に食べることができず、喧嘩や暴動が起こり一口も食べることができません。
地獄にいる餓鬼の姿は、みなやせ細ってガリガリです。
この「ガリガリ」を漢字で書きますと、「我利我利」と書きます。我が利益、我が利益を求めてしまうという意味です。
自分の利益ばかりを考えて生きていると、結果的にはどんどん痩せ細っていってしまうということです。

一方、極楽世界では、みな朗らかに昼食を楽しまれています。
どうして同じ食事、同じお箸という環境でこのような違いが生じるのでしょうか?

極楽世界では、まずは鍋の反対側にいる人に食べさせてあげるのです。
自分がご飯を食べたいと思うように、相手もご飯を食べたいのですから、まずは相手から満たしてあげるのです。そうすれば必ず相手もお返しをしてくれます。
このようにして、極楽世界ではみなのお腹が満たされ笑顔でいられるのです。

同じ環境下においても、心の持ちようによってこんなにも違いが出るのです。

仏教では、相互供養・相互禮拝という教えがあります。
お互いが敬い、思いやりましょうという教えです。

皆様の心の現在地が地獄に近いのか、はたまた極楽に近いのか。
それによって目に映る世界は変わってくるのです。

ぜひ一度ご自身の心の現在地がどこにあるのかを手と足を止めて考えてみてください。
そのために、お仏壇やお寺という場所がございます。

合掌

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