朝、心の前に「鏡のような満月」を浮かべます。ただ、この鏡のような満月には「アカや埃、汚れ」がぎっしりと「こびりついて」いる。そして一瞬一瞬起きている「自分の妄想」によって満月を隠す「大きな雲」が出てくる。
人によっては鏡の汚れを落とすことは、アカを剥がすような、また鏡を磨くような、そんな感覚であるかも知れません。簡単にポロポロと剥がれる、洗い流される、取れていく感覚を得られる人は幸いです。自分のありのままの鏡(満月)が出てくる人です。
対して、強烈な恐怖感や自己嫌悪感がある人は難しい。
それはぎゅっと握りしめる、固まってしまった感情があること。自分の内側や、体にこびりついているもの、それを感覚では嫌だと思っていても、実は精神的に自分が握りしめているエネルギー下にあるので、そこから抜け出せない。といった状況にある。
これに対するのが「受け入れる力」でしょう。
また技法によっては「飛び込む勇気」みたいなものになると思います。
ただ、これが悪意を持った第三者があなたの前に登場してしまい、それを受け入れたり、そこん飛び込んでしまってはいけない。大変だ。それはネガティブな第三者の自分であっても同じこと。
だからこそ、裏切らない存在を得ることが重要。
仏教では基本的には自分の内側にある「法(真理・仏性)」に向き合う。それは裏切らない。また過去に修行を完成させた「仏さま」や「菩薩さま」に飛び込む(礼拝する)。これは安全であるし、仏さまたちは真理を得ている。
また、正いことを伝えてくれる「僧侶」に出会うこと。自分で経典を読んで理解できれば良いが、難しい場合や、解釈を間違うことがある。だから師から学んだ僧侶が頼りになる。そして彼らが修行を怠っていないことも重要だ。
頭で知っていても行動に移すとなると別であるように、すべては体験に依っていかなければならないからだ。だから実践修行している僧侶の方が良い。
また体験できないような教科書は真の教科書ではない。哲学と、宗教の違いを簡単に分けると、体験を伴う実践があるかどうかだ。
いま、何の話がしたいのかというと、「強烈な恐怖感」や「事故嫌悪感」に苦しむ人に対して、いきなり「そんなものはまやかしだ」と無や空を説いても、それはなかなか現実的には理解するのが難しい。それは感情の問題であるから、頭(理解)で感情がコントロールできるのは修行者だけ。
これも修行の積み重ねによって、指を器用に使って縫い物をするように、怒りなどの感情もコントロールできるようになるには積み重ねが必要で、教科書で知った、人から聞いた、からできるようになるようなものじゃない。
恐怖や自己嫌悪に関しては、安心できる信仰や、信用できる修行者に会うことが大切。
また、悪い業(ごう/カルマ)、蓄積された悪習慣の問題に対しては、少なからず自分で好循環へと向かえる、また努力できる環境を整えることも重要。教えてもらうのは他人に対してもらえることですが、結局は自分がやらないと意味が無い。自分の代わりにトイレに行ってもらっても何にもならないように。
恐怖や自己嫌悪感が強いと他への依存性が高くなってしまうから、自分でも意識して注意することが必要でしょう。自分が嫌いだから他人に求める、のでは良くない。自分を好きになって、自分を頼れるようにならないといけない。
体に痛みや不調があると、心(感情)が穏やかでいられない経験をしたことがある人も多いと思います。逆を言えば、身体を健全に保つこと、体を鍛えることは精神修養にも重要であること。歩く、山に登る。ただ筋肉を鍛えるのではなくて、体の骨から意識して、姿勢を正し、筋、血管を意識する。
なぜなら、まず座禅にしても身体の中心軸をつくることが重要であるし、意識がぼーっとしている人や、攻撃的な人も、身体を整えると落ち着く。
「調身・調息・調心」のの1・2・3の原則。
まずは身体を整えること。身体を鍛えて、息を整え、精神を健全にし、知識を高める。
そして世のため、人のために実践行動する!
仏教の深いことをお教えしたいけれど、まずはやはり簡単なことから。菩薩さんたちが、目の前の相手と同じ場所へ、地獄にだって降りていくように、できればそうありたい。(ただ自分は弱者だ!と声を荒げる者は良くない。弱者であっても、相手に笑顔を布施することくらいはできるはずである。)
佛道修行の第一は布施修行。笑顔や優しい言葉から始めましょう。
そして、これは相手を「幸せ」にする行動。好循環が幸循環へ。
悪循環は「自分を悪く」、また「他人を悪く」思っていると、そうなるものです。
相手の幸せを喜び、体も整える。
受け入れられる「受容力」は神さま、仏さま、ご先祖さまへの感謝に手を合わせるところから。
(住職同期書)