『死生観』を考える一週間

9月23日は、秋のお彼岸中日に当たります。皆様は、どのようにお過ごしになられましたでしょうか。お彼岸は、中日を挟んで前後3日間の計1週間ございます。なぜ1週間なのでしょう?

ちなみに、この季節には、他に「全国交通安全運動」がございます。この期間警察官の方々が、交差点や高速道路の入り口などで、普段よりも取り締まり箇所を強化して、交通安全を促しておられます。
そうすることにより、普段より丁寧な運転となり、交通違反や交通事故の抑止力となります。この「抑止」は仏教用語で「おくし」と読み、悪事を抑え止めて戒めることを意味します。

お彼岸が1週間あるのは、ご先祖様、故人様を普段よりも意識していただくためでございます。なぜ、ご先祖様や故人様を意識する必要があるのか?それは、日常を生きている私たちが考えることのない『死生観』と向き合うためなのです。

人によっては、非常に重たいテーマであると感じるかもしれません。それゆえに普段は考えず目を逸らすようにしている方も多いのではないでしょうか。しかし、私たち生きとし生けるものには、必ず「死」が訪れます。それは明日かもしれません。もっと先のことかもしれません。いつ訪れるのかは、誰も知ることができません。考えたってわかるものではありません。目を逸らしているうちに、突然近しい人を失うことになるかもしれません。

いつ何が起こるかわからないのが、この世の本質です。今、準備をするときです。必ずくるその時のために。

私たちは、臭いものに蓋をしがちです。心が丈夫(健全)な時に、蓋を開け中をしっかりと見てください。意外と臭くないかもしれません。開けてみなくてはわかりません。中身としっかり向き合うことが大切です。死生観も同じです。しっかりと向き合い、各々の死生観を構築してください。

向き合う場所として最適なのが、お寺で行われる勤行の時間です。または、ご自宅の仏壇の前の座布団の上です。

人間は同時に二つのことを考えることができません。それは「◯◯しながら」では、他のものには向き合えないからです。ご飯を食べながら、仕事をしながら、携帯を見ながら、話しながら・・・。「ながら」から離れて手と足を止めて、他の情報を遮断することにより、自分自身と対峙することができるのです。
法事や仏壇の必要性はここにあるのだ、と少しご理解いただけましたでしょうか?

死生観を考える上で、「死」をマイナスイメージとして捉えている方が多いように思います。
果たして本当にそうなのでしょうか?「死」がマイナスであるとすれば「生」がプラスなのでしょうか?本来、生死は表と裏の切り離せない関係にあるのであって、どちらかがマイナスやプラスだということはありません。ですが、家族やペットが亡くなった悲しい経験や、いつ訪れるかもわからないという恐怖から、悪いイメージを受け止めてしまっているのではないでしょうか。

お亡くなりになられたその亡き骸、ご遺体を通して何かを感じ取っていただきたいと思います。これも死生観を構築していく上でとても重要なこととなります。
ご遺体の「遺」は、「のこす」という意味があります。ご遺体とは、ラストメッセージであり、身体を用いた最後の「法話」であると私は理解しております。その方の最後のメッセージを身体に遺したその思いを受け止めるためにも、向き合う必要がございます。思考することが必要です。これがご自身の死生観となっていきます。

「真言僧侶であるならば、修法をしなさい」とよく言われます。若い時は、その重要さに気づかずにおりましたが、毎日行っていることで、その重要さが身にしみて理解できました。

仏教は哲学とも言われますが、頭で理解できるものではなく、体験を通してでしか身につけることができない特徴があります。誰かが代わりに考えてくれるわけでもありません。ともに考えましょう。

合掌

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