私たち人間は、誰しも「乗り越えられない」と思ってしまいそうな試練や困難を感じてしまう時が幾度かあります。
そしてこんな言葉を耳にしませんか?
「神は、乗り越えられる試練しか与えない」
試練とは、学校で出される宿題のようなもので、次から次へと「宿題という試練」が上から降ってきます。その宿題は、摩擦やストレス、困難や苦難といった逆境ともいえるでしょう。
そして、その逆境はその人に与えられた尊い試練であって、それを乗り越え、己を磨いてきた人は、一回りも二回りも大きく成長を遂げる。そしてまた次の試練という壁に当たった時は、また「神は、乗り越えられる試練しか与えない」と受け取り、乗り越えようとするのです。
私も当初はこのように受け取り歩んできました。
「仏は、次から次へと宿題をおとしてくるなぁ~」とよく感じたものです。その都度、その壁を乗り越えて己を磨いてまいりました。そしてある時その壁が、段々と大きくそして分厚いものになっていることに気が付きました。確かに、強靭な精神を身に付けていく一つの手法であることは間違いないのですが、この向き合い方では、いくら乗り越えようとも終わりがないということにやっと気が付きました。
なぜこのような考えに至ったのかと言うと、逆境という宿題を乗り越えないと人は成長しないと思い込んでいたのが原因であり、言わば、私の偏見だったのです。
この偏ったものの見方では、順境からは成長できないということになってしまうわけです。
逆境も確かに尊いことでありますが、それと同じだけ順境も尊いことであるということ。
松下幸之助さんは、次のように仰っておられます。
「素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は、自惚れを生む」
逆境だから、順境だから・・・ではなく、その置かれた境涯に素直にありのまま私心を入れず生きること。これが偏らない生き方でしょう。
逆境でも偏らず素直に生き抜いてきた人は、その境涯において卑屈になることもなく、また順境でも偏らず素直に生き抜いた人は、自惚れることなく成長する。
私もある時、物事を諦め、「置かれたところで咲きなさい」という修道女の渡辺さんのお言葉通り素直に歩みを進めて行くことにした途端、いままで次から次へと試練という名の宿題が降ってきていたのに、嘘のようになくなったように感じます。決して無くなったわけではなく、ただただその境涯を素直に受け止めるように心がけたおかげでした。
素直にいきるとは、どんな境涯であっても今何をすべきかを考え実行することだとおもいます。
お釈迦様の「毒矢のたとえ」というお話があります。
例えば、毒矢に射抜かれてしまった人がいたとして、その友人や家族が医者を呼び手当てをしてもらおうとしたとする。ところが、そこで矢で射られた当の本人が、『私を射た者の名前がわからない内は、矢は抜かない』とか『私が射られた弓の種類がわからないうちは矢は抜かない』などと言っていたら、その人は矢を抜く前に死んでしまうのだ。それと同じように、君の持っている疑問は修行には何の役にも立たない。私は、悟りに近づくための修行に役立つことは説くが、役立たないことは説かない。考えても仕方ないような疑問に考えを向けるのではなく、今やるべきことは何かを考えなさい。
「雨が降れば傘をさす」わけです。そこに、傘をさす理由を考えて傘をさしているでしょうか。逆境でも順境でも、この素直さこそが大事ではないでしょうか。