お寺で愚痴を吐き出していいのです。バチなんか当たりません。

2024年は、元旦から「令和6年能登半島地震」が発生し地震の規模は、マグニチュード7.6、輪島市で震度7を観測。26日現在では、亡くなられた方236人、安否不明者19名となっております。

今回の法話では、「阪神淡路大震災」で被災し、生き埋めの体験をした私が、元旦に発生した今回の地震で感じたこと、そして伝えたいことをまとめました。

まず、私が体験した「阪神淡路大震災」の概略を説明いたします。29年前の1995年1月17日午前5時46分、マグニチュード7.3を観測する大地震が発生し、死者数6434人という未曾有の大災害が起こりました。当時、祖父母と私は、2階建ての母屋で暮らしていました。地震によって2階建ての家が屋根だけになり、私はその屋根の三角形の部分から別棟で寝ていた父に生埋めになって1時間後に助けていただきました。

その後、祖父母の捜索へと進み、親族のみで6時間かけて瓦礫をめくっていきました。その間にも学生寮から出火しバケツリレーで消化するなど、あり得ない状況下での救出でした。

やっとの思いで、祖父母がいるところまで辿り着き、瓦礫をめくると、祖父は大きな梁の下敷きで圧死しておりましたが、そのすぐ隣にいた祖母は、気絶はしていたものの、ありがい事に無傷で救出することができ、95歳となった今も頑張って生きてくれています。

語り尽くすことは不可能ですが、今回の地震は、新年大護摩のお祈りの最中に発生したこともあり、このような時だからこそ、お寺の存在意義をお伝えしなくてはと思いました。

当時高校一年生だった私は、こんなことを思っていました。「なんでおじいさんが死ななあかんねん」「なんで家がこんなに潰れなあかんねん」「なんでこんな事になるや」と愚痴をこぼさずにはいられませんでした。もちろん、愚痴というのは、仏教では「貪・瞋・痴」の三毒にあらわされ、できるだけ吐くことは慎むべきことであるのは、百も承知ではありますが、「吐かずにはいられない状況」というのもあると思います。

高校一年生だったので、本来であれば、その愚痴も親が聞いてくれるはずだと思いますが、如何せん、親も被災者であり人間です。自分の父が亡くなり寺も家も全て全壊の現状で、ショックを受けていないわけがありません。そんな背中を見て「これは、もたれかかれないなぁ〜」と感じました。しかし、モヤモヤした気持ちは決してなくなることはありません。

これをずっと心の中に吐き出せず溜めておくと、心の病気になるのです。ご飯を食べてお手洗いに行かなかったら病気になるのと一緒です。(当時はそこまで考えておりませんでしたが)

そこで、高校一年生の私がとった行動は、本堂に行き仏の前に座り愚痴を吐くという行いでした。

僧侶になり20年経ちますが、いま考えてもその当時、とった行動は正解だったと思います。

終局、人間はモヤモヤした気持ちを吐き出さないといけません。大切な伴侶に吐き出すのか、またまた、両親や近い友人に吐き出すのか。しかし、みんな人間でずっと「心丈夫」というわけではありません。であれば、やはり吐き出す場所は、神仏の前、仏壇の前、お墓の前が良いのではないでしょうか。

神社仏閣ではお願い事をせず、日々の感謝だけするのが良いお参りの作法であると言われる方がおられます。

神社仏閣の前だからこそ、飾り立てる必要はないのです。ありのままの心の叫びを吐き出していいのです。吐き出し少しでも心に「ゆとり」をもって過ごしてください。それでなくとも、この世界は元旦から地震が発生し何が起こるかわからないのです。だからこそ、神仏に吐き出しながら少しでも心にゆとりを保ちつつお過ごしくださいませ。吐き出せるお寺を維持するのが、住職の役目だと思っております。

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