思い通りにならないものですよ

思い通りにならない相手に腹を立てていませんか。

相手は、そもそも自分の思い通りにはならないのです。

例えば、夜道に長い紐状のものが落ちているとしましょう。
ある人は、それをロープだといい、又ある人は、蛇だというのです。

このように、同じ対象物を見ていたとしても、全く違うものを見ているのです。要は、見ている世界が違うのです。見ている世界が違うとわかれば、思い通りにならないことも理解できるのではないでしょうか。

なぜ見ている世界が違うのか?

それは、対象物と「自分の目」の間に、自己執着心というフィルターが存在しているからです。
自己執着心とは、自分のことが大好きで仕方ないものの見方をする「意識」のことです。
つまり、偏ったものの見方をしてしまう意識のことです。よって人それぞれ違うのです。また違って当たり前なのです。

この原理さえわかってしまえば、自分の思い通りにならないことが当然だとご理解いただけるのではないでしょうか。相手を思い通りに動かそうとすると、無理が生じうまくいかないのです。夫婦、家族といえども他人です。自分とは違う「生きもの」なのです。思い通りになるわけがないのです。

また、他人を変えるよりも自分自身を変えていくことの方が早いし簡単です。同じ労力を使うなら、変わらない他人ではなく自分自身にその時間を使うべきなのです。

それでも他人を変えたい、響かせたいと思うのであれば、まず自分自身が「朗らかに生きる」ことです。その姿を見せることが大事です。しかし見せたからといって、すぐに変わる保証は決してありません。その人にあなたの朗らかな「生き様」が響き、共感を呼ぶのには少し時間を要してしまうからです。人に伝える最善は、言葉ではなく、行動なのです。

この四苦八苦ある「思い通りにならない世界」において「朗らかに生きる」ということは、簡単なことではありません。しかし、生きている私たちの勤めは、尊い命を「生かす」ことにあるのです。なぜなら、生まれたら必ず「死」があるからです。そして生と死の境目がない世界に生かされているからです。あす、生きているかわからないのが、この世界であり、生きていることが奇跡なのです。

「大袈裟なぁ」とお思いの皆様。大袈裟ではないのです。現実なのです。その現実を見ようとしない自分のフィルターがそう思わせているだけで、それは妄想なのです。今ある命を生かすためには、「朗らかに生きる」ことしかありません。「朗らかに生きる」という枠組みの中で過ごすことで、今まで気づかなかったことにも出会えるのです。

また、自分のためでは、継続することができないのも我々です。そんな時はこう考えてください。

「朗らかに生きる」ことこそが、最上の供養なのだと。それは、故人様やご先祖様への「安心」となるからです。遺族が下を向き、悲しみ、涙や愚痴ばかりの生活では、亡くなられた故人様やご先祖様も「安心」できないでしょう。「安心」こそが、最上の供養となりますので、「朗らかに生きる」という修行をこの世界で精進してくださいませ。
必ず、明るい未来へと繋がっていくことでしょう。

合掌

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